鳥居 元忠。 鳥居元忠 京都通百科事典

鳥居元忠。秀吉からの官位を断る家康への忠義、伏見城の戦いで戦死

彼と彼の臣の血がついた「血」は供養の為に各地の寺に飾られている。 そして、城を枕に最期を遂げた彼らの命は、結果的に家康の天下統一となって実を結んだわけですから、やっぱり涙を禁じ得ません。 徳川家の家臣で、下総香取郡矢作藩の初代藩主 である鳥居元忠(とりい もとただ)は、 1539年(天文8年)に松平氏の家臣・鳥居忠吉 の三男として三河(愛知県岡崎市)に生まれ、 1600年(慶長5年)の8月1日、62歳の時に 関ヶ原の前哨戦である伏見城の戦いで 鈴木重朝との一騎打ちで討ち死をしています。 その子孫が、あの大石内蔵助です。 その後、元忠は旗本先手役となって、旗本部隊の将として戦った。 」という書状を送りました。 イリス を機に今川氏より独立した家康は、その後三河国を統一。

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鳥居元忠・大軍相手に伏見城に散る

忠春は兄の時代に失った24万石の所領を取り戻そうと江戸城西の丸の石垣修理などの幕府の御用を買って出、また幕閣に贈賄をするなどしたため藩の財政は悪化し、それを埋めるために領民に苛酷な年貢を強いるなど悪政を続けました。 彼らの奮戦ぶりを語るものとして、彼らの血に染まった畳を家康は江戸城の伏見櫓の階上に置いたそうです。 城内の床には激闘でついた血がこびり付き、いくら洗っても取れなかったと伝わっています。 こうなる事は予期していたものの、やはり大きなショックを感じます。 さらに将軍の地位が家康から秀忠に移った後の元和8(1622)年、出羽国山形57万石の最上義俊がお家騒動によって改易されると、山形に22万石を得て移封され、伊達政宗ら東北の外様大名の監視という重要な役割を担うことになります。 死ぬ気で戦ってくれれば、敵の勢いを抑える事は出来るかもしれない。

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鳥居 元忠

和田兼三郎『鳥居元忠』 私家版 ,中村孝也『家康の臣僚 武将篇』 平野明夫 出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版 朝日日本歴史人物事典について の解説 安土 あづち 桃山時代の武将。 ただし忠政は、重朝が所蔵していた父の血染めの肌着だけは引き取ったとされる。 私くらい大した損失にはなりませんよ。 城内に乗り込んできた鈴木重朝と戦った末、鳥居元忠は討死。 「やぁ、元忠さん。 父は 鳥居忠吉という人物で、彼は三男にあたるものの長男の戦死や次男の出家によって家督を継承することになります。 しかし、に討たれ討死。

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鳥居元忠・三河武士の鑑と称された武将

もし変事があって大坂の大軍が包囲した時は 城に火をかけ討死するほかないから、人数を 多くこの城に残すことは無駄である。 元忠の首級は京橋口に晒されたが、親交のあった京の商人・佐野四郎右衛門が、知恩院の内である長源院に葬ったといわれている。 戦後家康がに移封されると、下総国矢作城4万石を与えられる。 京大坂が今のように平穏なら、この城の守りは私と近正で事足ります。 関連作品 [編集 ]• 鳥居元忠、決死の血天井 鳥居元忠の最期の決戦となった伏見城の戦いは、西軍4万に対して元忠軍はたったの2千と多勢に無勢な圧倒的不利な状況下でした。 そして、これがその通り実行されたのである。

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鳥居氏

この勝利の後、北条よりも徳川の方が有利だと周辺の旧武田家臣が徳川に寝返るものが続出するようになりました。 参考サイト 参考サイトは以下のとおりです。 明治維新による江戸城明け渡しの後、その畳は明治新政府より壬生藩鳥居家に下げ渡され、壬生城内にあり元忠を祭神とする精忠神社の境内に「畳塚」を築いて埋納された。 鳥井元忠はどんな人物だったのか、そしてどのうような戦いをしたのかを見ていきましょう。 兄弟は忠宗、本翁意伯、忠広、女 三宅政貞室。

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鳥居元忠

付近には六本木ロアビルや ドンキホーテなどがあります。 最近のドラマでは2000年のNHK大河ドラマ「葵 徳川三代」で、俳優の笹野高史さんが鳥居元忠役を演じられ、話題となりました。 このときの伏見城の血染め畳は元忠の忠義を賞賛した家康が江戸城の伏見櫓の階上におき、登城した大名たちに元忠の精忠を偲ばせた。 将来殿が天下を取るには一人でも多くの家臣が必要である。 近江佐々木義賢の後裔と伝えられ、丹波何鹿 いかるが 郡上林に住んだことからこれを姓としたという。 同14年家康に供奉して上洛。

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鳥居元忠の生涯に迫る!最期まで家康を支えた屈指の功臣│れきし上の人物.com

結果として、7月19日に開戦したこの戦いはこれだけの兵力差がありながらも鳥居軍が粘りに粘り、13日も月日を費やす戦いとなりました。 元忠と馬場氏の間には3男1女をもうけたと伝えられている。 伏見城の戦い 宇喜多・毛利ら西軍方は伏見城攻めを協議していたが、増田長盛の「伏見城は太閤様が日本中の人夫を集めて堅固に築城された、兵糧武器に至るまで事欠かない名城である。 「鳥居坂下」の交差点から「鳥居坂」を上って 行くと、長い直線の道が続き、突き当たりは 六本木通りの「六本木五丁目交差点」。 天正3年 1575年 、長篠の戦いに出陣。

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鳥居元忠

そして、家康が出陣すると共に西軍方である石田三成が挙兵し、大坂城にいた前田玄以や増田長盛らは家康に対して反旗を翻すと、伏見城は関ヶ原の戦いの前哨戦の場として幕を開けることになります。 それから家康はどうにか形成を逆転しようと真田に付いた丸子氏を攻めるなどして抵抗しますが、ここでも苦戦を強いられてしまいます。 。 ピークをとっくに過ぎた老いぼれジジイだし… もし、そんな事頼んだら「 死んでくれ」って言っている様なものだもん。 鳥居元忠の子孫 家康は忠実な部下の死を悲しんだ。 柴裕之は元忠が13歳(天文20年)から家康に仕えていたとする『』の記事が正確であることを前提として、元年(1555年)に家康が14歳で元服してからを与えられて「松平元信」を名乗った際に3歳年上の元忠も同時に元服・偏諱授与の栄誉を受けたのではないかと推測している。

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